弘前と前川國男 - 1: 
木村産業研究所
(弘前、青森、日本)

建築家前川國男の初期から晩年までの作品が、今も残る街、弘前。代表作も多く、作品を辿ると、時代とともに一人の建築家が成熟して行く様を、そして、風土を建築にいかにフィードバックして行ったかについて、目の当たりにすることになります。

前川國男と弘前の縁は、母の実家が、津軽藩の重臣の名家だったことに遡ります。その母の兄、佐藤尚武が、国際連盟事務局長としてパリに駐在していた際に、ル・コルビュジェのアトリエに入るために渡仏した前川國男を、後見人として自宅に預かりました。同じく、津軽藩の重臣で、明治時代に実業家として活躍した木村静幽が、弘前の地場産業のための研究所を構想し、それを引き継いだのが、孫の木村隆三でした。彼も、同時期に、社会事業を学ぶためにパリに滞在しており、そこで、前川國男と親交を結んだのでした。

日本に帰国後、東京レーモンド建築設計事務所で働いていた前川國男に、研究所の設計を依頼したのが、木村隆三で、その木村研究所が、自分の名前で手掛けた初めての建物となりました。

かつての武家屋敷地区で、今も落ち着いた静かな住宅街を抜けて行くと、突然、回りとは違う、白いモダニズムの建物が現れます。今でさえ、周囲との差が明確ですから、完成した1932年当時、その対比は、いかばかりだったでしょう。同じ弘前に1921年に建った藤田記念庭園の洋館はアーツアンドクラフト風、1937年に建った玄覧居の洋館はアールデコ風であることからすると、いかに時代を先取りしていたかがわかります。

建物の正面は、2階建の箱型で細長く伸び、真っ白な外観、ピロティ、水平な窓など、いかにもモダニズムらしいボキャブラリーに溢れています。昼間は影となり、近づくまでは気が付きませんが、玄関の吹抜や車寄せの天井に塗られた朱色が鮮やかです。西欧で学んだ建築家が、習い立てのモダニズムの理論を、そのまま生硬に形にしたようなところが、若々しく、今も、魅力的です。

1935年(昭和10年)に弘前を訪れたドイツのモダニズムを代表する建築家、ブルーノ・タウトも、この白い研究所を見て、日本の僻地に、モダニズムの模範解答のような建築のあることに驚きました。

ただ、その生硬さは、風土より理論を優先させたというか、西欧の理論には、西欧と違う風土への視線が欠落していたというか、日本有数、すなわち、世界有数の豪雪地の風土には、うまく適合できないところがありました。

今、正面の外観を見ると、ちょっとのっぺりとした印象で、玄関上の大きな開口も、平坦な立面の中で、少しバランスを崩した大きさです。その開口の下をくぐり、吹抜に入り込んでも、どこか中途半端な雰囲気が否めません。実は、この大きな開口の前面に、完成当時は、外に突き出すように、バルコニーが付いていました。確かに、そこにバルコニーがあると、立面に変化が生まれ、活き活きとして来ます。しかし、外に突き出したバルコニーは、豪雪の気候に耐えられず、消え、同じように、近代建築の5原則の一つである屋上も、凍害による漏水に悩まされ、今は、閉鎖され、屋根を架けています。

近代建築の5原則に則って、分割されずに、一つながりの水平連続窓になるはずだった窓も、日本には、当時、その長さの窓をスチールサッシュでつくる技術がなく、中間をコンクリートの細い壁で分節せざる得ませんでした。結果、本来なら、水平のガラスの奥に、自立した柱が見えるはずだったのに、外壁と柱が一体化し、理論が、現実の技術に阻まれてしまいました。技術の時代的限界もまた、当時の日本という風土の現れだったのです。

それでもなお、80年を生き、この弘前の地で、成功も失敗も含めて、日本のモダニズムの黎明期を伝えています。

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交通
弘前駅から駒越、弥生、枯木平方面行きバスで20分、市役所前公園入口で下車。または、土手町循環バスで20分、市役所前下車。日中は頻発。

リンク
弘前市役所

弘前観光コンベンション協会
弘前総合情報RIng-O Web

宿泊施設のリスト
弘前市旅館ホテル組合

参考文献
"前川國男と弘前" (A haus2005年1月号、A haus編集部、2005)
"建築家前川國男の仕事" (美術出版社、2006)
木村産業研究所展示

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木村産業研究所(1932)

        Photo by Daigo Ishii